全国権利擁護支援ネットワーク 実践交流会

(2014年8月23日、於千葉県弁護士会館)

■基調講演
「権利擁護における意思決定支援とは」 佐藤彰一

■分科会
(1)「成年後見と意思決定支援」
(2)「社会福祉協議会の権利擁護支援」
(3)「成年後見以外の権利擁護 」

概要補足→http://on.fb.me/1q90OiJ
他の参加者からの記事→http://goo.gl/Qim0iC

    • -

以下感想。

今年度の実践交流会のメインテーマは意思決定支援だったと思うが、そのうち私が参加した第1分科会「成年後見と意思決定支援」は、事例を通じて意思決定支援のあり方を考えるものだった。7〜8名のグループで、司会進行役にしたがってメンバーが思うところを話す。事例は、認知症の高齢者(女性)が入退院を繰り返す中、自宅でこのまま暮らすのが良いか、それともGHや施設へ入所するかが焦点となったが、後見人を含む関係者の調整によって自宅で死を迎えたというものだった。早期にご本人が愛猫との暮らしを望み気にしていたこと、また近隣の友人の意見などが要因となり、さらに対立要素も特に見受けられなかったため、比較的穏当に自宅生活の継続が進められたようだ(という各位の評価)。これ自体は悪くない。情報は少なかったがおそらくご本人の意思表出は十分ではなく、だから論点として本人の健康状態、経済状態ならびに重要な関連情報の整理と検討が行われた結果、上記のような支援となった。良い支援を行えたのだろうと思われる。

ただ私が気にしたのは、この分科会が意思決定支援をテーマにしていたにもかかわらず、取り沙汰されていたのが代行決定のあり方のみである点だった。事例自体は悪くない。代行決定のための最善の利益検討を論じ合った帰結は反対しない。しかし参加者はみな、これを「よい“意思決定支援”の話し合いができた」と思って帰るのだろうかと懸念した。

基調講演でも「supported vs substitute」が説明されていた。講演中でも、日本ではまだ代行決定プロセスまでを含めて狭義の意思決定支援と混同しているのではないか、のような指摘もあった(私もその点は同意する。かつて京都の研究会で報告書に書いている)。ならば分科会においても、「supported desision-makingの可能性を検討したのちに、初めてsubstitute desision-makingに移行する」手続きを意識化させることによって、両者が異なる(それぞれにある)ことを理解してもらう構成を準備すべきではなかったかと思うのだ(そして、できればその検討をしやすい事例の準備...最初は比較的軽度の方がわかりやすいかもしれない)。自分の発言の順番で、私はその点を問題とし、本人の意思をどのように収集すればよいか、本人の意見がいつ確認されたデータなのか、今もそうなのか、聞き取れるのか聞き取れないのか、聞き取れると仮定した場合はどのような環境を工夫すればよいか、などを含む、本人の意思に関するデータが不足しているのではないかと発言した。そして、なぜMCAで第一原則以下を置くのか、考えてみて欲しい、と話した。しかし(理解した人もいたかもしれないが)、「それはわかるが、今回の事例では重度の認知症で意思表出が望めず、友人の発言などに基づいて検討することが妥当だった」「MCA原則というが、実際の現場では難しいのではないか」などの意見をやんわりともらう(この辺は記録していないので私の意図的な誇張を否定しない。架空の演出と思ってくれてよい)。繰り返すが、この事例の結論に反対しているのではない。ただ、研修の場で、これを意思決定支援の妥当例として理解されるのは、少なくとも重要なポイントを学び損ねている(あるいは誤解する)のではないかと気になったのだ。日本での意思決定支援はこんな感じが妥当だ、とするのならば別なのだが、しかし私個人はそれはまずいと思う。

今まで私は他の研究会(「現場の意思決定支援研究会」ほか)や事例検討会の中で具体事例を話し合った末にひとつ感じることがあった。どうやら私たちは、supported desision-makingの段階で行うべき試み、すなわち、本人意思の確認をどのように行うか、そのための様々な手段、努力、そして具体的な達成イメージを持ち合わせていないようなのだ。Code of Practiceには、「本人の意思を受け取るためのあらゆる努力」として、時間や場所を変えてみること、聞く人を変えてみること、デバイスを工夫すること、などなどが紹介されている。事例検討に際して、本人にそのような可能性はなかったのか質問すると、そういえばやっていないとの返答を得る。思うに私たちは、代行決定に移る前にすべき手続きについて具体的な方法を知らない、あるいは丁寧に検討したことがないという、経験不足の状況にあるように思われる。話し合っていくと、その検討が欠けていたと気づかれる。いつもチェックを行うかは別としても、少なくとも何回かは検討して、自分の意思決定支援の流れの中で「本人の意思能力存在仮説が棄却されたため代行決定に移っているのだ」との気づき(認識)を持つことができるようになったほうがよい。

MCAならびにCode of Practiceを勉強し始めたころから(最近まで)、私はMCAの手順が常識的というか大まかで、あまり実用的ではないような感覚をどこかで持っていた。なんだかぼやーっとした話だなあと思っていた。しかし実際の事例について意見交換してみると、その常識的な手順すら確認できずに代行決定を意思決定支援として進めていこうとするのを目の当たりにすると、この手順をどのように順守するかが今の私たちにはむしろ重要なのかもしれないと考えるに至る。

関連して、私はいわゆる「意思実現支援」を意思決定支援プロセスといったん切り離して考えるほうが良いと主張している。しかしこの主張の言わんとするところをなんとなく理解するとしても、受け入れてもらえる(賛同される)ことは多くない。そのことと、「実は意思決定支援って私たちのソーシャルワークの中ですでに行っていることなんですね。」との発言は近いところにあるように思う(そういう場合もあるとは思うが)。現状ではまだ慣れないsupported desision-makingについて、今はまだ意図的に明確化するほうがよいのではないか。supported desision-maikingはその過程あるいは結果として、相手を突き放すことを含む。良く言えば、適切な距離を持つ、あるいは自己と異なる他者として尊重する。それは一定の難しさや不安(リスクとまでは言わなくてよい)についても、相手にゆだねることを意味する。しかし「実現支援」もコミにすると、どうしても相手の思いとの同一化が早々に図られてしまうように思う。“実現の是非はともかくも、あんたの考えはどうなんだ”と考え求めることが、先ずは必要なのなのだが。
保護的支援の傾向が強いアジア圏域で(これ自体は良い悪いではない)、supported desision-makingのような関わりが受け入れられ、実践されるかはわからない。日本での実践においてもひとつの壁となるのかもしれない。

追記
事例検討する場合、最初は軽度の方がわかりやすいのでは、という点を補足(8.27)。