理解してその先で共有しようとする

紙屋研究所というHPで下記の書評が出たのだが、その本自体とは別に、評者の書いていることが面白いのでメモ*1

辰濃和男『文章のみがき方』(紙屋研究所)

私の目に留まったのは、「好きになろうと精いっぱい努力をする」の節と、その次の「紋切型の言葉をさけることは紋切型の思考をさけること」の節。
 
「好きになろうと精いっぱい努力をする」の節。
批評をするためには、先ずその対象を好きになろうと努力し、理解しようとする。そこまで行った先に相手の困惑やら悩みやらたぶん悲しさやらが見えるので、それを共有する。そのときに対象を乗り越えて批評に至るのだ、そうだ。
私は批評活動をしたいと思ったことがあまりなく、その対象が自分にとって何なのだろうということ(自分と対象との距離)を自分で納得するために書くことが多い。書きながらあれこれ考える。また自分がその対象を好きか嫌いかも重要な指標だったりする。それ以上の欲求がない*2
しかし批評活動のような文章を手がけるとしたら、彼らの言うような感覚は理解できる気がする。それで何となく目に留まったのだろう。ただ本当に自分がそのようにできるかどうかはわからないけれど。
 
「紋切型の言葉をさけることは紋切型の思考をさけること」の節。
これについては自分でも考えていた。例えば笑いを取るときに笑わせるための表現をそのまま使うととてもつまらない表現になる。淡々と言葉を積み重ねた結果出てくる可笑し味のほうが好ましい(出来るかどうかは別として)。もちろん読者が欲しい言葉を欲しいときに投入するというレトリックもあるのだけれど、それはここぞというツボでこそ使えるのであって、いつも使うのは水戸黄門の印籠のようなものだ。
もうひとつ似た話に、問切り型表現ではなく“big words を使わない”とうのもある。これはある対象が何であるかを考える際に役に立つ。例えばありきたりの「ボランティア」のような言葉を使わないようにしてみると、それを違った言葉で表現しようとすることになる。ああそうか、自分にとってはそういう意味なのか、自分はそう考えていたのかと再確認できる。普段は流して使っているし、いつもそんなことしていたら疲れるのだけれど、気になる言葉についてはやってみると良いと、いつの間にか考えるようになった。
 

*1:「にわたずみ(潦)」の話もずっごく面白いけどね。なんだかわかるな〜

*2:ブログ上で、という話です