「成年後見人である親の集い」を開催(その3)

(その1)(その2)からの続き。

記録することやそこから考えていくことについて。親として必要になる、後見事務以外に大切なこと。
 
ある親御さんから、報告の必要性とは別に記録が大事という発言があった。いずれ自分から他の人に引き継がれるとき、被後見人等である自分の子どもにどんな嗜好があるのか、どんなことに拘ってパニックになるのか、などなども含めた情報を受け取って後見事務に就いてほしいのだけれど、家裁への報告書には含まれない(だから提出はされない)。しかし自分にとってはこれも大切な情報だから記録している、と。
記録なんて面倒だしたいへんだけど、そのように将来のことを考えて記録を(自分の手元に)残すようになったのが後見受任の意味かもしれないとも指摘されていた。
またさらに、記録を付ける作業をすることで、子ども*1の今まで気付かなかったことを新しく発見することもあるとも言っていた。
 
全員ではないようだが、親としての自分以外に、後見人としての自分が意識されてきたのが受任の成果と言う人も居た。子どもの居る施設に対して「ほーら私、後見人でもあることですし(ニコリ)」などと柔らかく情報照会や疑問の指摘をする。ただそのいっぽうで、やはりなかなか指摘できないので考えつつ対処するとのお話をする人も居た。そういう時にPACガーディアンズに連絡していただいて支えに回れればよいのだろうか。

記録の重要性についてはオブザーバ参加した第三者後見人からも出ていた。親後見人から将来的に第三者が引き継ぐとして、どのようなところに気をつければ良いのか、どこへ行くのが好ましいのか、何が好きで何が嫌いか、それらを知らないがためにいつのまにやら本人の権利を侵害することになっていやしないか心配だ、とのコメントだった。

千葉県の単独事業である中核生活支援センターの所長である某氏の成年後見に関する講演がずいぶん良いとの評判が出た*2。それでその講演中で「後見申立の前にしておくべきこと」が指摘されていたとのこと。改めて確認したいと思うが、どうやら被後見人等候補者であるご本人の生活をきちんと見回してみましょうということも含まれているらしかった。例えばご本人に関するプロフィールや嗜好、人間関係、周囲の社会資源とその関係などを書き出してみましょうとの話らしい。講演を聴いた親御さんから、自分は子どものことをあまりよくわかっていないところもあるなあと思ったとの感想があったようだ。
これもやはり上記の「記録の必要性」と同じく、ご本人の生活を理解して将来の暮らしに繋げるためにどうすべきかを具体的に考えようとの趣旨があるものと思われる。つまり申立の「事前にしておくこと」と受任の後に「記録していくべきこと」は同じ思いに基づいているのだろう。

どちらにしても、ひとえに本人の思いの再確認(自分たちがわかっているのかを知る)と将来の暮らしを描きつつ考えていくことだ。両者が一致したのはとても興味深いことだった。
 
ある親御さんは、後見受任することで職務上そのように意識して考えざるを得なくなったことが良かったと話していた。後見人となることで初めてそのような視点が顕わになる、と。
意識としてかなりすごいことじゃないかと思う。ただ問題は、すべての親・親族後見人がそのような意識になるとは限らない点だろう。逆に言えば、私たちが今後強調して伝えていかなければならないことになるのかもしれない。
親であることとともに、親ではない後見人としての立場を持つことにもなる。子どもをひとりの人としてみることもできるかどうか。

記録を自分ひとりでする、しかも親としてだけでなく後見人として、そして将来の後見人に引き継ぐことを想定して書き付けたり残したりしていくのはたいへんかもしれない。うわーという人も居た。また自分ひとりではなかなかそのようなことまで考えられない、考える時間的・精神的な余裕もないと話す人も居た。
これは個人的な思いつきなのだが、PACガーディアンズなどが定期・不定期にその方々と関わって、一緒に検討・記録していくことも業務としてあり得るのではないか。第三者が加わることで、将来への思いがより具体化されるとともに客観化されるのであれば、有益な仕事となる可能性もある。いわゆるファイナンシャル・プランナー(FP)に似たような関わり方になるのだろうか。こういうのは何て言えば良いだろう?
 
家庭内同居の場合に身上監護面がどうなるのかについては今回話題にしていない。前回聞いてみたところが、やはり曖昧であることが話されている。私の聴き方がまだ良くないことも確かなのだけれど、今回はスルーさせた。
 
もう1回続く。本人意思の問題である。

*1:子どもといっても既に成人は越え、中高年のおじさんおばさんである場合もあり

*2:名前出したかったけど無許可なので自粛