「成年後見人である親の集い」を開催(その4)

(その1)(その2)(その3)からの続き。
 
ひとり、最後のあたりで興味深い発言があった。

息子の後見申立を行い、面接を受けるために家裁へ赴いた。調査官が息子さんに後見審判を受けることやその結果親が後見人となることについて本人に確認をした。理解しない様子の息子さん。それでもっと丁寧に調査官が話す。
すると調査官の説明を聞いた息子さんは、“ぼくにも決めたいことがある”のように言ったのだそうだ。親としては子どもがそのような発言ができるとは思いもよらず、驚きまた喜んだ。調査官もこれは鑑定省略できないだろうと判断し、改めて鑑定手続きを申立者である親に依頼した*1。お金はかかってしまったのだけれど、親御さんはそれ以来息子さんの判断を聞くことに(いっそう)意を用いるようになった。うーむ。
 
これに関連して、今回の集いでは後見受任の意味が生活に繋がった点は評価できるいっぽうで、その人(被後見人等)の決定をどのように支援・確保するかが十分に話し合われなかったことは確認しておかなければならない。やはりこの部分が問題なのだろう。

「(1)本人にとって最善の環境を用意し最善の選択を行うこと」は、当然ながら「(2)それを本人が決めることあるいは本人がそのプロセスに関与すること」と別々に起こりうる。親は親である故に(1)を強く希求する。(2)があるかどうかは別として。子どもが困るとき自分はそこに居ない(かもしれない)という思いがなおいっそう(1)の実現を急がせる。
だからだろうか、後見申立は子どもが成人したらすぐやっても良いのではとの発言も聞かれた。

親は(2)を考えないわけではない。しかし時にどう考えて良いかわからないかもしれないし、更には(1)と(2)を並立させるのは難しいと感じるかもしれない。加えて、この子には(2)は無理だと感じることもある。親でなくとも子ども本人の判断能力について疑う者は少なからず居る。しかし Mental Capacity Act 2005 のように、その人に判断能力があるとの前提から始め、これを棄却できるか否かの検討が必須だとのスタンスを持てるようになれば、もう少し状況は変わるのではと思う。

今回の会の中では、(1)が強いにしても、いっぽうで(2)を意識する発言も現れており(私は強い誘導をしていない/つもり)、両方の考えや姿勢がそこかしこに出つつそれらが揺らいでいる様子が垣間見えた。PACガーディアンズにいらっしゃるような親御さんだからでしょと言われればそれまでなのだけれど、でもステップは踏み出せるんではないのかなと思ったり。

社会資源が十分に保障されない中で(1)に偏らない姿勢を貫くのは、ほとほと容易ではないと思う。同じ立場だったら私に可能かどうかわからない。しかしそれでも考えていかなければならない(それを当事者に押しつける)のが今の状況。
考えるべきなのだから考えなさいと強く言うのではなく、一緒に話し合う中で、そうね、そういう関わりが必要よねと自然につぶやいてもらえるようにならないものか。
 
今回の話し合いについては事前了解を得た上でICレコーダによる記録を録っており、またプライベートなことや表に出せそうにないことについてはカットする旨も確認されている。そのような編集をしても今回大事だった発言部分は問題なく残りそうなので、いったん記録を起こしたうえで親御さんの指向性や悩み・揺らぎのようなものを検討してみてはどうかと考えている。そして整理した文章を今回の参加者に読んでもらって再度話し合いを集約深化させると、親御さんにとっても私にとっても改めてわかるものがあるように思う。

お互いに、大切なことに気付く、到達する、あともう少しでそこに降りられそうなのだが。

会場を片付ける傍らで、良い会でしたねと事務局長に声をかけられた。
 

*1:療育手帳B1で後見類型で、かつ鑑定省略もあり得たということについては疑義あるが、これを確認するためにも調査官が面接したのだろうかと、でも後見か