後見制度は決定支援を担保しない

日本の成年後見制度は、自己決定支援をやっていないとの理解をしている。


もっぱら本人の契約・取引からの排斥であった禁治産制度から現行の成年後見制度に改正される際、海外動向を踏まえつつ、ノーマライゼーションと本人意思尊重や残存機能活用などの理念が取り入れられた。
それで後見制度は、本人保護と本人意思尊重あるいは本人の決定支援という、アンビバレントな方向を併せ持ったということが言われている。実際、海外の類似法*1にはそのような構成になっているものもあるようだ。
 
しかし日本の成年後見制度の場合は、保護はよくできるようになっており、また本人の意思尊重については身上配慮の義務などに示されるものの、本人の決定を支援する方向について特に規定されているわけではない。法的にどういうのか知らないが、少なくとも決定支援の担保が明示されているわけではない。だから極端な話、後見事務を行うに際して本人の決定支援を行う意図はなくとも特に支障なく実施できるように思われる。もちろん身上配慮の観点に立ち、これを敷衍して本人の決定を取り入れていけばよいのかもしれず、だから解釈上は支援もできるとは言えるのだろう。しかし要は個々の後見人等の実務的裁量に任されているに過ぎない。身上を配慮すればよいのであって、その結果本人意思が特に理由なく却下されても問題はない。つまり仕組みとして保障されているわけではない。


ひとまず私はこんなふうに理解しているのだが、どうだろうか。本当はさらに法的な議論を加えて固めていく必要があるのだけれど、そういうのはまだ慣れていないので、今はまだ放ってある*2,*3。また具体例の中でかみ砕いて検討してみることも必要だろう。いずれやりたいと思っている。ただ先日関係する法学者に伺ったところ概ね理解はいただけたようだから、あまり間違ってはいないのだろう。よろしかったらもっと法学的にご存じの方にお教えいただきたい。

このような理解は、英国の Mental Capacity Act2005 や Code of Practice を学ぶと、それとの比較によって際だってくる。
すると、ますます日本の後見法は自己決定支援などしていないと言わざるを得なくなってくることも指摘しておきたい(英国の制度が上手く機能するかどうかは別として)。

平時の後見がどうもイヤな感じに動いているのではないか、との書き込みをいずれするつもりなのだが、その前哨戦としてこんな文章をばらばら書いてみた。


ところで、自己決定のお話を憲法論的には13条の後段で行う先生もいらっしゃるのだそうだ。「自己決定の第2類型」として論じているらしい。私は間接的に伺っただけなので、敢えて記事として独立させず、ここにこそっと書いておく。
 

*1:海外の‘後見法’と言わないことに注意。後見という守備範囲で括ると誤解がある法律もあるようなので、このように書いている。

*2:議論に民法などの具体的条文を引いていないし、判例検討もするべきなのでしょうか?

*3:この辺も‘着ている服が服だから’になるのかなあ、なんて。そりゃちょっと違うか