コミュニティフレンドに関する考え方、再検討
このところお陰様でコミュニティフレンドについて記事にも取り上げていただくことがあり、また関心を持ってくださる方もいて、活動を行っている。それでお問い合わせなどいただくこともあるので、明日のシンポジウムを前に自分でも整理というか再確認しておく。なお、これはPACガーディアンズの総意ということではなく、私のメモ書きである。例によってぐちゃぐちゃ書いている。*1
コミュニティフレンドと成年後見は連動しない
コミュニティフレンドは成年後見の補完ではないと思っている。ただ私たちは後見支援を行うNPO法人でもあり、そこがコミュニティフレンドもやっている。また発想の端緒も、知的障害・発達障害のある方々の長い人生を考える途上だった。でも私たちはその答えが成年後見(だけ)ではないという点で早々と一致したため、その他のことも考えるようになった。そしたらコミュニティフレンドも必要だと思うに至った。
現在は、コミュニティフレンドが単独で活用されている。また彼らが後見人となるわけでもないだろう。
じゃあなぜ後見と一緒に語られてしまうのかというと(それはたぶん私の整理が下手だからなのだけれどひとまず置いといて)、それらを必要とする人が同じだから、だ。
成年である彼らにとって必要なことをひとつずつ挙げ、それらをどうつなぎ合わせるかを考える。その中で(専門職等による)福祉サービスも重要だし、法的なところや財産管理では後見も必要かもしれないと考える(ていうか、今の制度だと必要になってしまうのだ)。そして加えてコミュニティフレンドも入れ込んで、ひとつの図で説明する。
現在は過剰に後見制度が持ち上げられているから、それとの対比で生活支援やコミュニティフレンドをもっと大事でしょうよと指摘しようとする。だから同時に俎上に挙げて語る。
→(参考)成年後見・生活支援・コミュニティフレンドの整理(misc., 2008-02-25)
それからもうひとつ。
権利擁護という観点を持ち込んだときに、成年後見もコミュニティフレンドも意味がある。関電工の宣伝ではないけれど「実はこれも権利擁護です」みたいな。*2
成年後見制度はそもそも権利擁護の観点を下敷きに運用されなければならないお話だ。ところが今は、財産管理や契約・決定事態などの効率的処理のために使われていたりする。私ではない他の方が口を酸っぱくして強調する。成年後見に関わる者がもっと権利擁護をもっと厳しく意識すべきであり、そのためのツールとして後見制度があるはずなのだ、と。
いっぽうコミュニティフレンドはあまり権利擁護とは関係なさそうに見える。でも専門的福祉サービスだけで十分でしょという見方に疑問を抱くことからコミュニティフレンドは出発される。
それから福祉関係者ではない“外の人”が関わりに入り込むことで、“外の目”ができるという副次的な成果物もある。それをコミュニティフレンドのバックアップ団体(PACガーディアンズもそう)が受け止めて専門職支援者につなげていく。
支援者がやっても良いけど支援者になってはダメなわけ
福祉専門職である人がコミュニティフレンドになってくださることもある。その場合はもちろん職場の利用者さんがそのままコミュニティフレンドのパートナー(利用者)となることはない。職場とは関係ない人とペアを組んでいただく。
福祉専門職を辞めた方が、かつての職場の利用者さんとペアとなることはある。そしたらそのコミュニティフレンドさんが、職場での立場ではできなかった関わりができるのが嬉しいと言っていた。
とはいえ、今のこの人との関わりは支援関係なのかそうではないのか?と悩んだりすることはある。でもコミュニティフレンドを継続していくと、次第にその辺はまあどうでも良いやと思うようになっていくらしい。
支援者にはならないで良いとコミュニティフレンドさんには言っている。むしろ支援者にならないで欲しいとも言っている。支援者として関わるべきことがあったりニーズが見えてくるようならば、それはPACガーディアンズが仲介して別の専門職支援者につなげる。
支援者として関わると、それはもう、やってあげる人とやってもらう人の関係になるから。
専門職支援者として職場の利用者さんと関わる限りは、やはり専門職としての責務と業務の中で関わらなければならない。それは重要なことであるし良いことでもある。でも既にそれは友だちではない。
友だちは時にはいてもいなくてもよくなるものだし、勝手だし、けんかもするし、くっついたり離れたり疎遠になったり、かと思うとひょっこり来たり。
私は何もできないのだけれど、コミュニティフレンドになんてなれるんでしょうかと問われたことがある。そうじゃない。何もできないから良いんです。
ただ、実際には支援者とそうではない人との関係なんて、よくよく考えれば曖昧なことも多い。ことに目の前に多くの支援ニーズを訴える人がいる場合には、そんなこといちいち言っていられない。今自分は支援者なのか友だちなのかとか、そんなこと言う必要もないでしょう。
全身性障害など多くの支援ニーズを持つ身体障害者の支援者との関係の中でも、2人の関係は支援者だったりそれ以外だったり、あるいは労働関係になったりすることがある。それでそのような中で関係性を移ろわせながら、2人の関係が深まっていくようだとの観察記事を読んだことがある(深まらなくても良いんですけど、まあいちおう)。2人が関わるというのはそういうものらしい。
とはいえ、やはりコミュニティフレンドは支援者じゃない、との言葉は改めて掲げるところから始めた方が良いと思っている。
コミュニティフレンドの仲介は無粋なお節介だ
友だちなんてあてがわれるものじゃないし、余計なお世話だ。それはその通りと思う。
でもこうしたコーディネートを行っているのは、今のところは残念ながらそうしないと広がらないからだと答える。自然と普通に友だちができるのであればそれで構わないのだが。
だから、もう彼とはコミュニティフレンドの枠を抜けてただのときどき会う関係だけになりますから、と言われたならば、それでよい。
もちろん、本人の会・当事者の会を妨げたり拮抗したりするものではない。当然。*3
朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。
ガイドヘルパーのように、ニーズがあってそれの充足のために来るのではない。Aさんが来られなければBさんで良いのではない。
ほかならぬAさんと会うことの楽しみを大事にしたい。*4
たいしたことをやっているわけではない
だから良いんだ。よね。