コミュニティフレンドとその関連活動の一般化/あるいは外向きの言葉

先のエントリーの続き。

つまり、これまでは内向きの言葉で進めていたところが、もう少し外向きの言葉が必要になってきた。それで今は試行錯誤しつつ出しているところだ。
その一環が、前回と今回のエントリーでもある。まだ叩き台バージョンくらい。


この2〜3年で、千葉県の血清財団記念助成によってひとまずはコミュニティフレンドを立ち上げ、実施の仕組みや手順を整え、頼りになるコーディネータも得て、運営を軌道に乗せた感はある。これから第2期というか、これを維持しまた多くの方々に関わってもらえるようにしていく段階に入った。


多くの人たちに伝え、関わってもらうためには、わかりやすく伝わりやすい言葉が必要となる。それでチラシを作った。これから配る。
そこで採用されたのは“あそぶ、はなす、でかける”だった。


またいろんな人に伝えていくと、こちらの趣旨が十分伝わらないことや、あるいは誤解のようなことも生じる場合がある。また賛成ではない人に対する説明や、納得されずとも反対されない程度にまで論陣を張る必要も出てくる。


もうひとつ、私(たち)はコミュニティフレンドという名前を売りたい気持ちは特に無く、それよりもむしろ他で近似・類似の活動があるならば一緒につながって生き残りを図りたいと考えている。
そのためには他の活動との共通性(最大公約数?)を見つけ、一般化するための特徴付けが必要になってくる。


いろいろ考えているところなのだが、例えば、

  • “生活の彩りや活動の多様性を拡大する”
  • “福祉専門職以外の多くの人や場との関わりを拡大する”
  • “社会との接点を作り広げる”(いわゆる社会参加という言葉を含む)
  • “本人の興味・関心を広げ、楽しむ”
  • “本人の個人的な関わりを作り、広げる”
  • “活動内容はかなり自由度と柔軟性がある”(制度的に縛られない、できるだけ少ない)
  • “活動方法も柔軟”
  • “普通の人が普通に関われる”*1
  • “気軽に活動に参加できる許容性がある”

のようなことだろうか。(まだあれこれ唸っているところなので、これから変わる)


“友だち”という特徴付けは入れていない。この辺についてはまた議論ということで。
また福祉施設に出向いてのんびり話をすることなども含みたいので、福祉の場から出なければいけないなどの規定はしない方が良いと思う。でも本義からすると、「コミュニティフレンドやその近似・類似活動」の意図するところはずいぶんと開かれたものでいることは分かるだろう。
それから、権利擁護的な姿勢については、社会的に不利に置かれやすい人と関わる者の当然の素養として備えることになるとの組み入れ方にする。


あまり難しいことを言わずにやっていく方が私としても楽しくて良いのだが、活動の維持存続を考えると、何かしら屁理屈で固めたり、場合によっては突っ張ったりしないといけないのが悩ましくはある。*2,*3,*4


で、次回にはその先達とも言える(かもしれない)活動のひとつである、スウェーデンのコンタクトパースンについて、河東田博先生の説明を紹介して、どのように説明されうるかを見る。
 
 

*1:普通の人って何だよと突っ込みたい人はいるでしょうね。…うまく書けないのでひとまずこうしておきます。

*2:もともと好戦的じゃないですから…

*3:先にも書いたが、実際関わっている人にとっては、定義がどうとか理念がどうとかどうでも良いし、鬱陶しいばかりだと思う。しかしそうも言っていられないところで、申し訳ないけど能書きたれさせてください、というか。

*4:つくづく思うのだが、私はもともと “〜ではない” を意識して自分を確認したり作ってきたところがある。例えば “俺は〜ではないな” とか。また仕事上の関心についても、例えば消費トラブルとの関わりでは、自分の立ち位置は侵害との闘いや救済部分ではなく、その前後の生活に降りていく辺りのことのほうだと確認していた。もともとの性格が捻くれているので、性に合っていた。コミュニティフレンドについてもその特徴の記載を “友だち” であるとは押し出していたが、その他については “支援者ではない” とか “難しいことはやらない” “出るところへは出ない” などと形作ってきていた。でもそれだと、他者と共有していく概念にはなりにくいのだなということは、今回少し分かった。まったく四十代半ばでこれかよと思うが、まあ、もうひと息なので苦労してみる。