「成年後見人である親の集い」を開催(その1)

11月5日、PACガーディアンズの企画として以前(2005年12月)も開催した会を、好評につきもう一度行った。各員のご意向により、今後も継続的に開催することとなりそうだ。

参加者の声によれば、親が後見人になるのが良いと言われてなってみたものの情報が不足しており、他の人がどのようにしているのか知りたい、また悩みや疑問を話し合いたいという希望が強いようだ。
開催地が船橋であり、参加者は千葉・東葛地域がもっぱらだった。
参加者を確認すると、前回(2005年12月)と重なっている人は3名ほど。他6名ほどは今回新しく参加した人。それだけ後見申請する人が増えたのだと実感。他は今後の申立を考えている人、あるいはオブザーバ参加。
 
既に書いているが、成年後見に対する個人的なスタンスとしては“無くて済むならそれに越したことはない、のだが”との感覚を持っている*1。その人の人生にとってしたいことや必要なことを一緒に検討し、社会資源のマネジメントなど将来計画を考える中で必要になった際に初めて後見という答えもひとつ出てくる。ただし現状ではこれを容易に許さないところもある。
また親が後見人となることについて、私はこれを(理念的には)ベストだとも思っていない。ひとまず親が後見人となって次に第三者後見人あるいは法人後見などに託したいという方略は理解できる。他の選択肢をなかなか採りにくい状況にあって、紛争時の後見申立ではなく平時の申立なのであれば、そういうのもあり得ると思う。でももうひとつ踏ん張って、後見無しでも良いはずじゃなかったのかと問う余地はあるはずだ。生活支援の社会資源とネットワークでその人の暮らしを盛り立てる。あるいはつつがなく送るお手伝いをするとか。ところが現状はそうも行かないので、次の選択をすることとなっているのが今なのではないかと。



(脱線)
日本の現行後見制度は保護的関与を強化する/確立する機能を果たすが、もうひとつの柱となるべき機能である、その人の決定を支援する機能は持ち合わせていないと私は考えている。禁治産制度からの改正時にこのことは議論され、本人意思尊重の理念なども取り入れたはずなのだけれど、しかし現行法内にはこれを現実に担保する仕組みは組み込まれていない(と思う)。
いや、制度の構造をきちんと考えれば、決定支援の仕組みもあると言えるとは思うのですけどね。この辺はブログだから或る程度流して書きますが、それを認めた上で、しかし実質的にはダメダメだなあと思っているわけで。
能力が無いのが口惜しいのだけれど、それ故に本格的にオルタナティブを提起出来るような議論を組む必要があるのだと思うし、少なくともそのように努めてインパクトを社会に与えるべきだとも思っている。また現行法を大きく変えることは困難としても、せめてそのような考え方に基づく生活の支援方向を意識していけるようになる必要があるとも思っている。今のかたちで満足してはいけないとの感覚は持ち合わせて良いはずだ。まだ賛同してくれる人は少ないのだけれど。
(脱線終わり)


現況で親御さんたちの志向が私(たち)と同じであるかというと、必ずしもそうではない気もする。さらに私とは違う部分もあるのだろうけどそれは別にかまわない。現状では親御さんが先ずは後見人となって次につなぐ流れがあるのであって、だからこの方々としっかりと話し合い考えていくことは、とても重要だという点は理解している。
また私たちが将来的な法人後見の担い手になることも強く期待されている。そしてPACガーディアンズが千葉県から受託している研究助成事業としても親の会等との連携を試みている。

以上のようなことを認識したうえで今回の会に取り組んだ。
 
長くなるので次回へ続く。文章は出来ているのだけれど、区切って掲載します。
(その2)
 

*1:加えて現行制度では知的障害のある人にとってはパターナリスティックに過ぎる制度なので関係団体が修正的に取り組むべきとの意見も持つが、今回は別の話