制度化と排斥

定年で退職される教授の最終講義を拝聴。私の所属セクションなので準備にも多少携わっていた。大仰なことを好まない先生で、かつまだまだ研究は続けるのだから最終講義なんて言われるのは抵抗があるとのことで、恒例より規模を小さくしての開催だった。こういうのは結婚式などと同じで、やるほう(周囲で担ぐ側)はそれなりに賑々しくしたがるものだ。だが個人的には先生のご意向はもっともだなあと思っていた。とはいえそれなりにしつらえるんですけどね。
自分のときにはこういうの(退職前の一連のイベント)やって欲しくないなあ等と仲間内では言うのだが、さて、どうなることやら。
いや、誰もしてくれない可能性大だから。たいして偉くもならないし。


閑話休題
わからないなりに興味深かったことを2〜3挙げる。もちろん私がぼーっと聴いていたのを書き写すだけなので、以下に書かれたことの責任は講義者にはない。講義のネタを契機として私が勝手に考えた、くらいに思っていただければ。


「最近は研究の話はするけど学問の話はされない」
そういう風潮にあるなあと同意。私が学問の話を出来るかというと、これもまた心許ない。


てんかん史研究」
てんかんの歴史は、排斥から受容に(一気に)変わる時期があるのだそうで、しかし十分研究されていないからやらなければならない。他にもやりたいテーマはいくつもあるとのこと。


「制度化されていくところで排斥される」
たとえば軽度知的障害の子どもの教育史において、最初はたぶん教師はいろいろ努力したのだろうと。最初から排斥しようとする教師ってのもいないから。ところが努力してやってもうまくいかない。それで整理されて制度化が進むと、結果として排斥となることもあると(歴史を見るとそういうこともあった、と。)。
安易に分離・統合の二分律議論に持っていくのではなく、また研究途上だから言い切るべきではないと言い置いてのディスカッションだったから、言葉の断片に反応しないでいただければと思う。また私も意図を十分汲み取って書けているわけでもないし。


勝手に自分に引き込んでみると、他の事象でも、形式的にそのようになっていってしまうこともあるのだろうなと感じた。
たとえば成年後見制度も意図としてはよかれと思う組み立てなのだろうけれど、制度として整えたことによって区切らなくても良いことを分け隔ててしまった部分もある。制度・システムというのは効率化と一般化だから、広げるには都合がよいが、個別具体にはそぐわないことも出てくる。当然出てくると想定される、そのような個別性を、どのようにして対応できるかが問題になる。
あるいは制度(適用)の前で不器用にというかバタバタやっていることもやはり大事なのだよなと改めて考えた次第。


ps
こんなこと勝手に書いて、俺の言ったことをぜんぜん理解してない、と後で怒られたりして。