決定支援を本当にやると大変だと思われている、ことについて

昨日のエントリーの続きあるいは補則。昨日の話は下記参照。


決定支援は後見の現場などで行われていると思われてる(かもしれない)と指摘されたことを前回書いた。私はあまり現場に近くはないが、それでも関わりはある。それで振り返ってみて、自分だって大したことは出来ていないと思う。だから以下、そういう話として読んで欲しい。


決定支援が十分ではない場合として思い付くのは、次のような場合だろうか。

 (1)実際にはやってないけどやっていると勘違いされている場合
 (2)形式的な、もしくは不十分な決定支援だけが行われている場合
 (3)やっている決定支援が結果としての本人利益を考えているだけの場合


結果に重点を置く支援と経過(プロセス)を重視する支援は異なる。そして両方やれる場合もあれば、片方だけの場合もある。
これらのパタンに具体例を載せていくともっとわかりやすいのだが、まだ自信を持って載せられないので、もう少し時間をおいて考えたい。(今後書く文章の習作みたいなものか)


いちおう話としてはこうなる。で、おわかりのように、実際はけっこう難しい。


次にどんなところが難しいのか考えると、それは(ア)業務負担としてのカウント、(イ)心理的な曖昧さの維持努力、(ウ)責任所在とかいうやつ、の3つくらい出てきそうだ。


(ア)
日本で決定支援を具体的にやり始めると、それは今のところやり始めた人間個人が配慮し、手配し、確認し、事後対処を行い、ということにが多いのではないか。つまりしんどくなる。少なくとも、そう思われている。
あるいは、周囲の人に任せておけばそつなく終わってしまう(そして本人の頭の上を通り過ぎて決まる)ことが、時間と手間がかかることになり、そのフォローをやることもある。本人と話し合い、納得してもらい、一緒に出かけて手続きするなど。
こっちは業務負担という話になりかねなかったりするかもしれない。*1


(イ)
しんどさを受け止めてやっている支援者は、いろんなことで絶えず葛藤する。本人ともやりあうし、自己内でも悶々とする。答の出にくい答を探す作業をする。
それは既に「せめぎあい」として関係者が表現してきた。
そういった、適当なところでスパッと切らないで曖昧な中で悩み続けるのは大切なことなのだが、楽をしたければ悩まないほうがよい。またそのような悩みが大切だと理解してくれる同僚あるいは先輩は必須だろう。そうじゃないとおまえ何やってんのと逆に無能率・非効率をそしられかねない。


(ウ)
それからもうひとつ。
決定支援について、あまり(周囲に)手間のかからない選択Aと手間のかかる選択Bがあり、無難にAとしたい多勢に対して誰か(支援者の一人)がBも検討すべきと主張するとして。
じゃああんたが責任持ちなさいよという話が、その支援者に来る。責任とは本人がもっぱら引き受けるものである、という話は、福祉の領域ではけっこうどこかへ飛んでいく。これは本人の判断能力の問題だけではなく、例えば(判断能力は特に支障のない)重度肢体不自由者のいわゆる自立生活などでも聞く話だ。


そこで、権限の緩い補助等ではなく、後見類型のほうが楽だと思われるのも道理だろう。楽というのは、もちろん周囲の人が。
そしてこれは、後見をやっている現場の本音でもある。そう言っている人の発言を聞いたことがある。
(それでPACガーディアンズでは、後見にすぐつなげてお終いなんじゃなくて、支援の手を良く尽くすようにしようと言っている。)


だから手順として決定支援を意識の上に出すとか、あるいは担保させるようにする、そしてそこまで支援するのがみんなの当たり前だと思われるようにする。そうすることで初めて決定支援が広がるのではないか。
つまり、幾分なりともパラダイムをずらすお手伝いをしてはどうかと思う。
(…と、結局このパラグラフを言いたいためにこの文章を書いたんだけど、なんだかちゃんと浮き上がってこないなあ)


そんなことを考えながら、本を編む話をしている。
(念のため付記すると、私がちゃんと本人意思の支援をできているかというと、そうではない。ぜんぜん違う。私も良くないなあと思いながら妥協することがある。)


今回はかなり未消化なことを書いた。きれい事というか、表面的ななぞり方に終わっているので、あまり毒にも薬にもならない。
理想を追いかけてもしょうがないのだけれど、何か考えられたらと思う。

*1:すっごい婉曲表現だわ