“支援された子育て”(parenting with support)

一気に書いてしまわないとこういうのは悩みすぎて書けないので、バサッと書く。ブログらしく、どうでもよいことを書いて核心部は書かない。
以下は翻訳作業をしながらうだうだ考えたこと。


知的障害のある親の子育て支援を考える際の鍵概念のひとつが、標題の“支援された子育て”(parenting with support)である。この概念を導入することによって、彼らの子育てを肯定し、支援関係者の理解を促し、関係者による支援体制を組み立てていくひとつのツールとなったらしいことが書かれてあった。
どうしても子育ては助けられずにやって一人前と思われるのだろう。もちろん依存的にやってよい話ではないのだけれど、使えるものを使わずに孤立して困難に陥るのではなく、誰かと一緒に、前向きに子どもに向かえるようになるのが最もよいはずだ。そういえば、サン=テグジュペリの言葉に「共に同じ方向を見ること」みたいなのがあったな。そんなイメージ。
そしてこの“支援された子育て”を柱に据えて、具体的な支援方法を作っていく。らしい。*1

おそらくは、この概念を受け入れることによって、親も支援者もそれぞれに自分の居場所と立ち位置が与えられたのだろう。もちろんこのような関係は侵害される関係への移行もあり得るのだけれど、無自覚なままに互いの役割を混同させる過ちよりはよい。


このような考え方は知的障害のある親だけではなく、他の障害のある親の子育て領域についても言えることだろう。さらには、一般の子育てについても他の人との関わりの中で育てていく方法として援用されてもよいのかもしれない。メインとなる使い方は位置づけをブレさせないにしても。


ところで、この(a)“支援された子育て”(parenting with support)という和訳については何となく自分の中でしっくり来ていない。(b)“支援つき子育て”、(c)“支援のある子育て”、(d)“支援を伴う子育て”などいろいろ言ってみるけれど、どうも合わない。今は暫定的に(a)にしているけれど、いずれ(b)か(c)にするかもしれない。


“支援された決定” (supported decision-making)についても、やはり決定とその支援を考える際に重要な言葉であることは前にも書いた。こちらも“支援つき決定”なのかなと思ったりもする。“支援された決定”というと、決定の意味が弱められてしまう。かといって“支援つき決定”では堅い感じがあるし、支援も決定もまとまらない。
本当は“支援を使いながら決めていくこと”くらいの主体性を出したい。けどそれが上手く滲み出てこない。(でも原語はニュートラルだよなあ)


もちろん問題はその言葉の中身のほうだ。それの表現などどうでもよいことなのだけれど、しかしいい加減にもできず、悩ましい。
そういう小ネタだから、ここに書いてみました。
本筋の仕事に戻ります。


(関連)

 

*1:だから、具体や本筋に今回は立ち入らないんですってば。